ミレーとゴッホの『種蒔く人』
   第一部:ミレーの『種蒔く人』
   第二部:ゴッホの『種蒔く人』

マタイによる福音書 13章3~8、18~23節
 

 

 

  こんにちは。本日は第一部でミレーの話をさせていただきます。第二部でゴッホの話をします。まず、ミレーの話から始めます。

 ミレーと言えば『晩鐘』『落ち穂拾い』『種蒔く人』で有名です。ミレーのエピソードからご紹介します。資料に載せました。

エピソード
 ある日パリを散歩をしていると、美術商の店先に掛けてある彼が売った裸体画を二人の男が眺めているのに出くわした。
 「この絵は誰が書いたんだい?」 「ミレーって男さ」 「ミレー? どんな絵描きだい?」 「いつも女の裸ばっかり描いていて、それしか能のないやつさ」
二人の男はそう会話して立ち去っていった。
 それを聞いていたミレーは愕然とした。お金の為に仕方なくとは言えども、裸体画ばかり書いているせいで、世間に低級な好みを狙っている画家であると評価されているのだと知ったからである。以後、彼は一切裸体画は書かない、と心に決めたという。

 もっと正確にいうと、以降ミレーは宗教画しか描きません。そこで書かれたのが、本日扱う『種蒔く人』です。この1850年に描かれた絵画「種蒔く人」に注目します。
 ミレーは、本日の聖書箇所マタイ13章、あるいはヨハネ12章を題材にしてこの絵を描いたと言われています。

 また、その38年後、1888年にゴッホはこれを真似て『夕陽と種蒔く人』を描きました。両者はとても対照的です。みなさんは、どちらが好きですか。

●M・G→


 「種蒔く人」という題名ですから、「種蒔く人」とは、一体誰でしょう。聖書によれば、これは神様です。種は何でしょう。種は、神の言葉、聖書です。

 ですから、神の言葉が、蒔かれ、やがてそこから芽が出て、育ち、豊かな実を結ぶ。こうして人間は、救いに与る。これがミレーの「種蒔く人」という絵の表現したかった内容です。


 しかし、聖書を読むと、そこに描かれているのは「種蒔く人」のことではなく、「蒔かれた4つの土地」のことでした。ここには「4つの土地の状態」が描かれています。
 4つとは、①道ばた、②石の上、③茨の中、④良い土地です。そして、それぞれの意味が、18節以降に書かれています。それを読みましょう。

 道端とは、19節「だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心に蒔かれたものを奪いとって行く。道ばたに蒔かれたものというのは、そういう人のことである」
 石地とは、20節「石地に蒔かれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう」
 茨とは、22節「いばらの中に蒔かれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである」とあります。

 こうあると、日本人はまじめだから、「私は道端かしら、石地かしら、いばらかしら」と理解してしまう。ひどい場合は「あの人はもちろん茨よ」などという。しかし、それは大きな間違いです。

 大切なのは、4番目の「良い土地」です。では「良い土地」とは、どういう意味でしょう。
 23節「良い土地に蒔かれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」
 良い土地に蒔かれた種は、芽がでて、育ち、豊かに実り、数十倍の実をつける。

 おもしろいことに、この13章は、種蒔きの話なのに「聞く・聞いて悟る」が合計15回も用いられています。
 つまり、「私はどの土地かしら」が問題なのではなく、あなたは「聞いていますか」「み言葉に耳を傾けて聞いていますか」です。神は、私たちの能力とか資格とかを問わない。ただ一つ望んでいるのは、み言葉を聞き、それを受け止め、生活の中で実現することです。


 こうして、この箇所のテーマは、4つの土地ではなく、「種蒔く人」だということに気付きます。「種蒔く人」とは神です。つまり、この箇所の本当のテーマは、人間の4つの条件ではなく、神の姿なのです。神はどういうお方なのかが、この箇所に示されているのです。
 こういう意味で、ミレーの方が聖書の意味をよく表現していると言えるのです。

 ここでもう一度、ミレーの「種蒔く人」をじっくりと味わいましょう。
●M→

 見て下さい。やはり、4つの土地などでてきません。十分に耕した「良い土地」だけです。そして、そこに、しっかりと立つ神の姿。これは夕日です。夕方という種まきにふさわしい時間に、種を惜しみなく蒔く。力強く蒔く。むらなく蒔く。これが、ミレーが表現した神の愛・神の力です。

 ですから、「私は能力がない」とか「私はだめだ」とか「私は石地だ・茨だ」と心配する必要はないのです。人間がどうであれ、神は、全ての人に、良い種を十分に蒔いてくださる。これが、ミレーが描きたかった神の姿です。

 さらに言えば、神が種を蒔く「良い土地」とは、農夫によって十分に耕された土地です。作物のノウハウを知った熟練の農夫が、土地を十分に耕して、そこに良い種を、たくさん蒔いてくださる。神はどうでもいい所には、種を蒔きません。土地を耕し、良い農地にして、そこによい種を、十分に蒔く。これが神の姿です。

●G→
 かたや、ゴッホの絵には、4つの土地が出てきます。悪魔を意味するカラスまで出てきます。夕陽は神でしょうか。種蒔く人も弱々しい。神の愛や力や正義が感じられません。ゴッホの絵は聖書に書かれている文字には忠実ですが、種蒔く神の姿は弱々しい、神の愛は全く伝わりません。

 

○M→
 結論です。良い土地とは、私たち全員のことです。

 神は、いつでも、私たちを看護り、み言葉を蒔いてくれます。ですから、私たちのなすべきことはみ言葉を聞いて悟り、豊かな実を結ぶことです。み言葉に耳を傾け、それを受け入れる。み言葉に耳を傾ければ、心が耕され、やがて蒔かれた種が芽を出し、実り豊かな人生になるのです。

 

 では、この後、この畑は、私たちは、いったいどうなるのでしょう。ミレーが生きていたら、直接、聞きたいところです。

 ミレーはこれにも答えています。ミレーは、種から芽が出て、豊かに実った姿を描いてくれています。それが、13年後1863年に描き始め、亡くなる2年前(1873年)に完成した『春』という作品です。

◎M「春」→
 これがミレーの描いた天国の救いのイメージです。