瀧廉太郎の『荒城の月』誕生秘話
 曲「荒城の月」と

 詩「ヘルフィム賛歌」との出会い

   

 

イザヤ書 6章2・3節

「上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」


  本日は、「瀧廉太郎の『荒城の月』誕生秘話」という題名でお話をさせていただきます。

 「荒城の月」の作曲者、瀧廉太郎(1879~1903.6.29)は、日本における西欧音楽の黎明期の音楽家です。『荒城の月』『四季』などを作った天才作曲家です。しかし、若くして23歳で亡くなりました。
 こういう事実はよく知られています。しかし、彼がクリスチャンであったということは、ほとんど知られていません。

 というのは、彼がクリスチャンだとわかったのは、彼の死後、63年も経った1966年だったからです。聖公会のある教会が、記念誌を作るので、過去の歴史を掘り起こし、教会員原簿・洗礼者一覧を整理していた時のことでした。


 瀧がクリスチャンであったことを強調するのは、クリスチャンであったという事実こそ、「荒城の月」という作品の本質を物語るからです。

 まずは、「荒城の月」の原曲を聴きましょう。瀧廉太郎作曲・土井晩翠作詞「荒城の月」です。
→CDNo.2「荒城の月」(2分23秒)


 次に、瀧廉太郎(1879~1903.6.29)の生い立ちを見ていきます。瀧廉太郎の父、瀧吉弘は大分生まれ。明治政府の役人で、大久保利通(としみち)の右腕でした。1879年、東京の芝で、廉太郎は生まれました。その後、父親の転勤で、横浜・富山・大分へと引っ越します。

 瀧とキリスト教との出会いは、青年期ではありません。すでに幼少期、4歳、横浜在住の時です。隣りに通訳官の松川家があり、松川家は熱心なカトリックで、そこでは時々家庭音楽会が催され、そこに宣教師や音楽家たちが集い、パーティーが行われていたそうです。瀧家はそこに招かれ、廉太郎の姉リエとジュンも、アコーディオンとバイオリンで賛美歌を奏でたそうです。この洋楽との出会いが、瀧の音楽的な才能を目覚めさせたのです。

 その後、大分で少年期を過ごし、15歳の時、廉太郎は、東京音楽学校(芸大の前身)に入学が叶います。東京の学校に通うため、1895年から、建築家の叔父、瀧大吉の家に居候させてもらいます。この叔父の家が、麹町上2番町(22番地)にあり(麹町上2番町1番地に5年後1901年1月聖公会の博愛教会が建つ)博愛教会は麹町下2番町(24番地)の静修女学院の2階で礼拝を守っていました。青年瀧は、叔父さんの家にいる間に、この博愛教会に通い始めます。

 瀧が通っていた博愛教会は、静修女学院の2階を間借りしていました。この静修女学院の校長(1893~1902)が石井筆子(旧姓渡辺筆子1865.5.19-1944.1.24)でした。フランス留学から戻った筆子は、日本の女子教育に使命を感じ、9年間この学校の校長を務めます。
 しかし、1890年に次女が亡くなり、92年に夫に先立たれ、98年に三女も亡くなります。のこされた長女には知的障がいがありました。当時の日本には、障がいのある子どもの教育機関はありません。かろうじて、受け入れてくれたのが、日本で初めて障がい児教育施設として創設された滝乃川学園(1891)でした。
 やがて、筆子は、静修女学院を辞め、滝乃川学園を創った石井亮一と結婚し、二人で知的障がい児の教育に一生を捧げます。こうして、現在では、石井筆子のことを「障がい児教育の母」と呼びます。近年では『筆子・その愛/天使のピアノ』という映画が作られました。

 さらにおもしろいのは、石井筆子がやめて閉鎖された静修女学院の校舎を購入し(1902)、英学塾にしたのが、親友の津田梅子でした。津田梅子は津田塾大学の創設者です。アメリカ帰りの津田梅子も、日本の女子教育に使命を感じていました。津田は、博愛教会の有力な会員であり、礼拝に学生たちを連れて出席していました。

 また、博愛教会の牧師は元田作之進でした。元田は立教中学の校長も勤め、音楽と伝道とキリスト教教育とのつながりを大切に思い、立教中学に音楽部をつくりました。

 瀧廉太郎は、こういう素晴らしい人々に囲まれて学んでいたのです。東京音楽学校で才能を徐々に開花させ、日曜日は教会の礼拝に出席し、いろいろな方々と交流し、特に元田牧師の指導を受けていたはずです。彼の教会での奉仕はオルガニストでした。ですから、津田梅子も石井筆子も、瀧の弾くオルガンで、賛美歌を歌っていたことになります。

 このような中、1900年に、文部省が中学の「唱歌集」ソングブックを作るために作品の公募をしました。瀧廉太郎は3作応募しました。それが「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」でした。みごと3作とも入賞し、ここから瀧は有名になっていきます。

 瀧が「荒城の月」を作曲していたのは、1900年の春と思われます。ちょうど教会でオルガニストとして奉仕をし、バプテスマクラスで学びをしていた時でしょう。そして、10月に洗礼を受け、秋に入賞し、ドイツ国費留学が決まりました。翌年ドイツに留学するまで、熱心に教会に通いながら、留学の準備をしていたと思われます。記録によりますと、1900年の大晦日の除夜祈祷会にも出席していたそうです。そして、翌年4月ドイツに出発します。

 また、ドイツのライプツィッヒでは、バッハの研究者に師事していたそうです。残念なことに、病気のため、瀧は翌年1902年に帰国し、大分の竹田で療養します。しかし、そのかいなく、翌年(1903年)、23歳の若さで夭折します。


 次は、曲自体について考えましょう。先ほどお聞きいただいた「荒城の月」には、日本文化の原理とは全く異なる別の「神秘性」が感じられます。それはなぜでしょう。また、「荒城の月」は「名曲だ。素晴らしい」と評価されながら、なぜか、その素晴らしさについての説明は、なかなか見あたりません。それはなぜでしょう。

 ニュース23の筑紫哲也(1935-2008)さんも、肯定的にですが、こう言いました。「自分には、素晴らしいのどうか、わからない」と、肯定的にですが、言っています。瀧廉太郎の妹トミが、筑紫哲也の母方の祖母なのです。ですから、筑紫哲也は、大分にある瀧廉太郎記念館の名誉館長でした。ちなみに、筑紫哲也もクリスチャンです。

 では、納得できる説明に出会えないのは、なぜでしょう。

 この謎が解けるのは、時を経て、87年後のことです。1986年、日本のカトリック神父芦田竜之介が、ベルギーにあるベネディクト派の修道院に滞在しました。この教会はエキュメニズム・宗教間の対話を実践していました。つまり、カトリックでありながら、正教会やプロテスタントの音楽を礼典に取り入れていたのです。
 その修道院の聖歌隊長であり、作曲家であるマキシム・ジムネ神父が、今度は日本の曲を礼典に取り入れようと考え、滞在中の芦田神父に日本の名曲を紹介してくれと頼みました。そこで、芦田神父は「唱歌集」を渡しました。
 翌年、ジムネ神父は「荒城の月」だけを選び、それを編曲し、他方で、ロシア正教で唱えられていた「ヘルフィム賛歌」という祈りのことばで曲を作りました。それが1987年のことです。

 こうして、87年の時をへて、曲「荒城の月」と詩「ヘルフィム賛歌」との出会いが、実現したのです。


 では、詩「ヘルフィム賛歌」とは何でしょう。

 ヘルフィムとは、正確にはわかりませんが、旧約聖書では、セラフィム、テラフィムと言われ、神の箱を守る天使のことです。

 「ヘルフィム賛歌」は、東方正教会・ロシア正教、日本で言えば、お茶の水のニコライ堂で「聖餐式の前に唱える祈祷文」のことです。聖体拝領の時、パンと葡萄酒を祭司が別室から礼拝堂に運ぶ時に唱える祈りです。つまり、聖変化・聖体変化を支えるスラヴ語の祈りなのです。プロテスタントはもちろん、カトリックでも失われた祈りです。

 

 ここに、ニコライ堂の式文があります。この式文から、ヘルフィム賛歌をお読みします。
「ヘルフィム賛歌」(ニコライ堂 式文から)
 われら奥密にして、ヘルウィムをかたどり
 聖三の歌を生命を施す三者に歌いて
 今この世の慮りをことごとく退くべし
 神使の軍、見えずして荷い奉る
 万有の王を戴かんとするによる
 アリルイヤ、アリルイヤ、アリルイヤ

 

 ヘルフィム賛歌は「スラヴ語の祈り」だと言いました。実はこれがとても重要なのです。なぜなら、『荒城の月』の原曲、つまり、瀧廉太郎の作曲では「花の宴」の「え」には#がついていました。
 しかし、山田耕筰が「荒城の月」をヨーロッパに紹介するときに、#がついているとジプシー音階に似ているので、ヨーロッパの人々は勘違いすると思い、#をとって、「これが日本の有名な曲だ」と紹介してしまったのです。
 しかし、この曲がスラヴ語のヘルフィム賛歌と出会うためには、#がある原曲の方が必然だったのです。ジプシー音階は、民族としてはスラヴ民族の音階(ハンガリー民謡)だそうです。

 

*「荒城の月」のよく見かけるピアノ伴奏付きの楽譜は、山田耕筰が編曲したものです。山田耕筰は、原曲を1音改変(2小節目の4番目の音を半音低く)し、また5小節目もリズムを変えている。
*山田耕筰は「この曲は殉情的に唱われすぎていると思います。むしろ、民謡風に、こだわりなく、なだらかに唱うべきでしょう」という。『世界音楽全集7 日本独唱曲集』1929年。


 前置きが長くなり申し訳ありません。曲「荒城の月」が詩「ヘルフィム賛歌」と出会った。私たちもその出会いに、立ち会わせていただきましょう。これから「ヘルフィム賛歌」を流します。目を閉じて、深く息をしながらお聞き下さい。
→CD NO.17「ヘルフィム賛歌」(4分12秒)

 

 いかがでしたか。ヘルフィム賛歌を聞いて頂きました。ヘルフィム賛歌・荒城の月は、間違いなく「賛美歌」です。神をたたえる曲です。このように理解したとき、この曲の奥深さ、神秘性が理解できます。

 そして、それがわかると、この曲が与えてくれる不思議な平安を感じることができます。東方正教会では、この心の平安のことを「ヘースキア」というそうです。
 素晴らしい賛美歌によって、私たちはこの世にいながら、神様のくださる平安・ヘースキアに与ることができる。こうして賛美を通して、主の栄光が宣べ伝えられていくのです。

 

<引用・参考文献>
大塚野百合『賛美歌・唱歌ものがたり』創元社、2002年。
大塚野百合『賛美歌・唱歌ものがたり2』創元社、2003年。
大塚野百合『賛美歌・聖歌ものがたり』創元社、1996年。
大塚野百合『賛美歌と大作曲家たち』創元社、1998年。
大塚野百合『賛美歌・唱歌とゴスペル』創元社、2006年。
ニコライ堂『主日奉献式文』1994年。
『キリスト教大辞典』教文館、1963年。
CD『荒城の月のすべて』キングレコード、2003年。
玉川直重『新約聖書ギリシア語辞典』キリスト新聞社、1993年。
手代木俊一監修『明治期 讃美歌・聖歌集成 第4巻』大空社、493-494頁。
『世界音楽全集7 日本独唱曲集』1929年。